首縊りたくぞう と ロンミュエク と ダミアンハースト と ラブドール と ジャガイモ

首くくり栲象(たくぞう)さんという、首をくくるパフォーマンスをする方がいる。昨日ゆえあってその様子の動画を見た。首をくくるといっても本当に首を釣っているのではなくて、実際には顎で支えているような感じにみえる。私はかつて実際に首を釣っている人を見たことがある。それは私の兄だ。兄は自宅で首を釣って自殺している。首くくり栲象さんのパフォーマンスを見て私は(同じような状況でも、そこに実際にあるのが生なのか死なのかで、まるで違うな)と思った。

そして今日、ロン・ミュエクという人の彫刻の画像を見た。ロン・ミュエクはシリコンなどを用いて皮膚の質感や毛まで徹底的にリアルに人物を作り上げる。そしてスケールだけを操作する。これは本人の死んだ父親を2/3の大きさで作ったものだ。私はこの画像をみて(これは、ここにあるのは、たしかに死だな)と思った。彫刻を通して、そこに実際の死がある。

展示される実際の死について考えていると、ダミアン・ハーストのこの有名な子牛のホルマリン漬けが思い出された。ここにあるのは間違いのない実際の死だ。そして同時に生でもある。この本物の仔牛の死体は、否が応でもこの仔牛が生きていたということを感じさせる。

この子牛のホルマリン漬け画像を見ていて私は思った。(あーそうか。死を感じるものは、同時に生も感じているんだな)

壊れてしまっている物を見るとき、実は同時に壊れていない“それ”も見ているし、動かなくなってしまった物を見るとき、同時に動いている“それ”も見ている。

 

生と死は対立する概念のように捉えられることが多いだろうが、実は同じものといえるのかもしれない。そしてその「生死」と対立するのは永遠とか普遍といったものだろう。

こんなことを考えながら今作っている『木彫りの立っているじゃがいも』を見てみる。これは仏像の持っている存在感、存在のあり方を意識して作っている。それは「リアルであると同時に、リアルでない彫刻」「リアルでありながら虚構性、超現実性を内在化させた彫刻」を作ろうとしてだ。

仏像について考えると、仏像は「生死」を超越するような存在として作られているだろう。

この「立っているじゃがいも」は命あるようなリアルな存在であると同時に、命を超えるような存在たりえるかもしれない。

……

って、こんなの急に考えだしたのは、中国のラブドールメーカーから「シリコンとかで、なにか作る気はありませんか?」ってメールが来たからなんですよね。どんなことできそうかな〜〜って検索してみていたら、ロンミュエクの画像が出できたんです。(今の一連の話の中には入れませんでしたが、ラブドールそのものも命の認識に対して問いかける要素はありますよね。妊婦のラブドールの写真を発表している作家の方もいますよね)

@uko3000 でのツイートをまとめ・整理して書きました

 

 

 

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首縊りたくぞう と ロンミュエク と ダミアンハースト と ラブドール と ジャガイモ」への2件のフィードバック

  1. 伊坂幸太郎の小説、「重力ピエロ」にも生と死において、
    川崎さんがかかれている両反性な瞬間の描写が登場するの、思い出しました。
    首縊りたくぞうさん、そんなパフォーマーさんがいるの
    存じ上げませんでしたが、ご自身がその動作を繰り返すなかで、なんだろう…しがらみから解放される自分、
    ということを夢想しながら何かをみいだしたいのか?
    生まれ変われる瞬間とか?
    実際に動画は拝見してませんがそんなことを感じました。
    人間の生は樹木とか自然界の成立ちや太陽や、惑星のスケールとかの時間軸からしてみれば、本当に一瞬なのかもしれず、
    ワタシ達は、そんな刹那を生きている、
    そんなことなのかもしれませんね。

    いいね

    1. 人間の生きている間はほんの一瞬とも捉えらますし、また、樹木や太陽や宇宙そのものも、現代科学の知見ではけして永遠なものではなくて、はじめと終わりがあるものですよね。

      いいね

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